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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第3節 幸せをあげるよ [4]




 蒸せるような夏のある日、銀梅花の香りを閉じ込めたシャンプーを買った。店の外で、ツバサに出会った。
 しっとりと濡れ始めた髪の毛に触れる。今はその香りも消え失せている。
 秋になると、銀梅花はどうなるのだろうか? やはり実をつけるのだろうか? あの庭は、今はどうなっているのだろうか?
 霞流さんはどうしているだろうか?
 美鶴は立ち止まって、空を見上げた。目の前が少しクラクラした。空腹も感じる。
 朝食も食べず、昼食として出されたうどんにもほとんど手をつけなかった。軽い貧血でも起こしているのだろうか?
 思わず額に手を当てると同時、背後から両肩を捕まれる。
 心臓の止まる思い。一瞬呼吸が止まったかとも思う。驚愕する美鶴の顔を、背後の人物は肩越しに覗き込んできた。
「美鶴、こんなところで何を?」
「瑠駆真っ」
 目の前の瞳が艶やかに揺れる。髪の毛はまだ表面が濡れているだけ。湿り気を含むほどではないが、それでも頬に落ちる雨粒が鈍い光を放ち、淡い色気を(たずさ)えて顎を伝う。
「こんなところで何やってんだ?」
 さらに顔を近づけようとする相手に、美鶴は逆に仰け反った。
「瑠駆真こそ、こんなところで何を?」
「僕はただ、傘を買おうかと」
 強くなった雨足に、傘無しでは無理だと判断した。折りたたみなんて持ち歩いてはいないから、コンビニにでも入ろうと思ったが、表通りは人通りも多い。どこで唐渓の生徒に出くわすかわからない。
 先ほど、小童谷と対峙した時に一度は立ち去った女子生徒たち。どこかで瑠駆真を待ち伏せしているかもしれない。
 今は会いたくない。
 避けるように裏通りへ。
 だが、普段歩かない通りでは、どこに何があるのかもわからない。小さな寂れた商店の間を、傘を求めて歩き回るとはなんともマヌケ。
 でも、傘無しで駅から美鶴のマンションまでは、さすがに歩いては行けないよな。
 そう、瑠駆真はこれから美鶴の住まうマンションへ向かうつもりだった。自宅に帰るのなら傘はいらない。駅から走ればなんとかなるし、濡れても着替えがある。でも、美鶴の部屋を訪問するのに、びしょ濡れではさすがにマズい。
 なんとしても今日、美鶴に会わなければ。携帯を鳴らしたが、いつも通り留守電。もはや怒る気も起きない。
 部屋に入れてもらえなくてもいい。マンションの外で立ち話をする事になってもいいから、美鶴に逢いたい。
 逢って告げたい。
 そう思いながら傘を捜し、そうして美鶴を見つけた。
 こういう時って、運命感じないか?
 瑠駆真の内面が高揚する。油断すると息苦しさで足元がふらつきそうだ。頭部にまわってきた血液で、頬に腫れるような火照(ほて)りを感じる。
「傘売ってる店なんて、この辺りにある?」
 瑠駆真の両手から逃げるように二・三歩下がる美鶴。瑠駆真は素早く瞬きした。
「あぁ、僕、ちょっとこの辺りの地理には(うと)くて」
「駅の表に行った方がいいんじゃないの?」
 言いながら見渡す先に、チラリと揺れる唐渓の制服。女子生徒三人。
 ゲゲッ
 反射的に身を翻す美鶴。
 ちょっとちょっと、なんでこんな日に限って唐渓の輩がウロついてんのよ? 土曜日で時間があるからか?
 心内で舌を打ちながらふと見上げると―――
「瑠駆真?」
 同じように女子生徒へ向かって背を向けてそわそわと背後を伺い、美鶴の肩に腕をまわす。
「ちょっ」
 美鶴が抗議する間もなく、瑠駆真は強引に美鶴もろとも手近な商店の看板の陰に身を押し込んだ。
「ちょっと」
 声をあげる美鶴の口に右手の人差し指を当て
「しっ」
 言いながらチラリと視線を向ける。
 美鶴のすぐ目の前、真っ黒な瞳が真剣に辺りへ気を配る。時折揺れるのは長い睫毛。雨露が跳ねて、小さく光る。適度に甘く、適度に艶やかな顔の輪郭と、目と鼻と唇。触れれば痕がついてしまうのではないかと思われるほどの、滑らかな頬。
 その肌が、ようやくゆるりと動いた。
「行ったみたいだな」
 どうやら唐渓生は、二人には気付かなかったようだ。
「ちょっと、何隠れてんのよ?」
 有無を言わさず押し込められ、美鶴はやや不機嫌そうに瑠駆真を見上げる。その表情に瑠駆真は苦笑し、ゆっくりと腕を美鶴から離した。
「ごめん。でも、見つかるとうるさいし、それに」
 そこで瑠駆真はひょいっと肩を竦める。
「美鶴だって、隠れてたじゃないか」







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